ありのままに見る
原始仏教では人間の認識のプロセスを以下のように説明している。
対象→六門→識→受→想→尋→行
対象とは認識の対象のこと。
六門は6つの感覚器官のこと。
・眼門(げんもん)- 視覚。
・耳門(じもん)- 聴覚。
・鼻門(びもん)- 嗅覚。
・舌門(ぜつもん)- 味覚。
・身門(しんもん)- 触覚。
・意門(いもん)- 原始仏教では、頭の中に浮かんだイメージや言葉を捕える器官が存在していると考えていて、それを意門と言うんだよー。
識は意識のこと。
対象と六門と識が触れ合って、受(感受作用)が生まれる。
受には楽受、苦受、不苦不楽受がある。
感受した対象を概念化する。頭にイメージが浮かぶ。これが想。
例えば、カラスの声を聞いた時、まず、何か音がしたと判断する。
これが想。
次に、「その音はなんだろうと?」と、その音にフォーカスして対象の中身を探る。
その結果、カラスの声だと分かる。
これが尋。
次に、カラスの声を聞いたことに対する反応をする。
たとえば「カラスだ。嫌だなあ。」とか。
これが「行」。
行は業(ごう)。
反応だ。
「カラスだ。嫌だなあ。」という思考は
「怖いなー。ゴミを漁るのが嫌だなあ。そういえば明日ゴミの日だなあ」
とか、どんどん連なっていく。
思考は連鎖して連なっていく。
思考の連結車両がどんどん連結されていく。
そこで・・・
サティを入れて、この思考の連鎖を断ち切ろう。
思考していることに意識的に客観的に気づいて、思考の連鎖を断ち切る。
思考の後続切断。
対象→六門→識→受→想→尋→行とあって、行まで認識のプロセスが進んだ後に、
サティを入れたという話だけど、もっと早くサティを入れることが出来る。
カラスの声を聞いたら、「音」とサティを入れる。これが想の段階。
想の段階でサティが入らなくても、尋の段階で入れる。
尋の段階でサティが入らず、思考がつらつらと始まったら(行の段階)、「思考」とサティを入れる。
「サティを入れる」とは妄想や五感の感覚に気づいて、それをラベリングする行為を言う。
人間は自分のフィルターを通して対象を見ている。雪を見ると、雪という概念が頭に思い浮かぶ。
だが頭の中の概念と対象とは異なるものだ。
また、六門を通して認識すれば、それは六門というフィルターを通してみた対象である。
ということは六門に認識のプロセスが進む前にサティを入れて、
ありのままに対象を見ることがありのままに見るということなのだろうか?
対象→六門→識→受→想→尋→行
↑ここ
それとも、ブッダは、対象が生じる前にサティを入れていたのだろうか?
対象→六門→識→受→想→尋→行
↑ここ
カントのいう物自体。これがありのままの対象だろう。